こんにちは!ほたる(@hotaru_tory)です!
私は現在フリーランスデザイナーとして広告デザインやイラストを描く仕事をしながら生活しています。
このページでは私がどのようにしてフリーランスデザイナーになったのか振り返ってみました!
漫画家志望時代
漫画家を目指すことを決めた小学生時代
小さい頃から絵を描くのが好きでした。
小学生の頃は少女漫画雑誌の作品を真似しながら幼馴染と合作漫画を描いたり、毎日のように絵を描いていました。
小学5年生の時、
自分も何か大切なメッセージを作品に込めて届けたい!
と思うようになり漫画家を目指すことを決めました。
中学時代も画家を目指す友達と仲良くなり3年間ずっと一緒に絵を描いていました。
「漫画の描き方」の参考書はすり切れるほど読みました!
高校生から漫画を雑誌に投稿し始める
高校に入学してすぐ雑誌に漫画を投稿し始めました。
高校2年生になった時、初めて賞金のある賞をもらい、発表ページに小さなカットが載りました。
それから何度か投稿しているうちに担当編集者がつき、デビューまでのサポートをしてくれるようになりました。
ホームページ作りにはまる
もう漫画家になれると思い込んでいたので、高校卒業後は大学にも専門学校にも進学しませんでした。
この時漫画家志望者のイラストサイトが流行っていたので、私も自分のパソコンを買ってホームページ作りに没頭しました。
全国の漫画家志望の女の子達と仲良くなって、東京や地方で集まって交流したのもいい思い出です。
サイトは細かくカスタマイズしたくて、参考書を買いHTMLやCSSを勉強しました。
ここで学んだ基礎が、今もブログカスタマイズする上でかなり役に立っています。
恩師との出会い
担当さんから連絡があり、受賞歴のある投稿者が参加できるスクーリングに呼んでもらえることになりました。
編集部内にある会議室のような部屋で講師による実演、質疑応答などを行うものでした。
講師は私が投稿していた雑誌の看板作家です。
スクーリングが終わり帰ろうとした時、講師に名前を呼ばれました。
「アシスタントに興味ある?」
「あります!!!!!」
これが恩師との出会いでした。
審査員として私の投稿作を見てくれていた先生が、私をアシスタントに誘ってくださったのです。
この時、私がかばんにつけていたキモい鳥のぬいぐるみを「これ可愛いね」と言ってきた先生。
アシスタントで学んだ技術
その雑誌の中で一番原稿の作り方が綺麗だった先生の所で学べたことはとても運がよかった。
誰も見ないような細かい部分までこだわる自分と相性がよかったと思います。
今まで独学だったからか先生の教えを素直にすんなりと受け入れられて、あっという間に上達出来たし、良い部分を自分の中に取り込むことができました。
私は人物を描くのが下手だったので、主に建物などの背景や小物類を描かせてもらっていました。
その中でも漫画の中の人物が持っている雑誌の表紙や、飲み物の柄を好き勝手にデザインして描かせてもらえるのが楽しかったです。
この時すでに漫画を描くことが辛くなっている時期で、頑張ればデビューまでもうすぐだったはずなのに投稿もできずにいました。
そして私は密かに思っていた。
漫画を描くことより、小物をデザインする方が楽しい!
趣味で始めた絵文字作成
この頃ガラケーのデコメ絵文字やメールテンプレートが大流行していました。
私も趣味でデコメ絵文字を作成して遊んでいました。
このドットで描く小さなアニメ絵文字で遊んでいたことが大きなきっかけとなりました。
アシスタント仲間の知り合いからデコメ絵文字作成の仕事を依頼されたのです!
この時、将来のビジョンが全く見えなくなっていた私に違う道が見え始めていたのでした。
音楽活動時代
動画サイトに投稿、動画作成にはまる
友人との間でカラオケブームが起こっていました。
カラオケの録音サービスを使ったり、フリーの録音ソフトにカラオケ音源を取り込んで録って遊んだりもしていました。
恩師に異常なくらい、いい声してる、歌がうまいと褒められていた私は、教えてもらった動画サイトの「歌ってみた」カテゴリーに投稿することを決めました。
といってもただの素人レベルです。
漫画家になるという夢を諦めかけていたから色々やってみたかったんだと思います。
とはいえ私は動画編集をしたことがありません。
ソフトは何を使えばいいの?という所から始まりました。
調べるとすぐに内蔵ソフトのWindowsムービーメーカーで作れると分かり、早速使ってみたら簡単に作成できたのでアップしてみました。
「こんなソフトが入ってたんだ!全然知らなかった!」
動画作りを続けていくうちに凝ったことがやりたくなり、有料の動画ソフトを買って使い方を学びました。
この学んだことも後々自分にとってかなりプラスになりました!
歌の依頼が来るようになる
どうせ私は普通に歌ったって誰にも聞いてもらえない。
そう思った私は、友人と一緒に作った変な替え歌を変な動画にしてアップしたところ、その動画がカテゴリー1位を取り、注目してもらえるようになりました。
このことがきっかけになり、ここから数年間企業や同人活動をしている方から歌の依頼や声の仕事をもらうようになりました。
漫画家志望サイトで知り合った友達の紹介で、ゲームの主題歌を歌わせてもらうことになったりもしました。
そのゲーム会社でデコメ絵文字を作れることを話したら仕事にも繋がり、ゲーム関連の絵文字も作らせていただいたり奇跡の連続でした。
漫画家の夢を諦める決意
今ではそんなことはないようですが、当時その雑誌で漫画家を目指すことを諦めた方がいいと言われていた年齢を迎えてしまった私は、アシスタントの仕事をやめることと夢を諦めることを先生に話しました。
漫画家志望の友達の間でも次々と諦めていく子が増えている中で、自分だけはそうならないと思っていたし、なぜか絶対に漫画家になれるという自信があった。
それなのに諦める日が自分に来てしまったことが情けなくて恥ずかしかった。
大学にも行っていない自分の将来が不安で不安で仕方なかったです。
たくさん集めすぎて本棚の重みで部屋の床がへこんでしまうくらい大好きだった少女漫画なのに、見ると拒否反応を起こすようになるほどになってしまいました。
保育園で働いた一年間
一人暮らしを始める
漫画家の夢を諦めると同時に実家を出てワンルームの小さな部屋で一人暮らしを始めることにしました。
とにかくすぐにでも自立がしたかったので、親に一人暮らしを反対されたのにもかかわらず、一人で不動産屋に行き勝手に契約してきました。
そしてちょこちょこもらえている絵文字と歌の依頼を受けながら、保育補助として保育園に勤めることになりました。
もちろん私は保育の資格がないので、園内の掃除や洗い物、壁などに貼る装飾類の作成やたまにピアノ演奏、本の読み聞かせなどを担当していました。
ただの雑用だけど、今まで自分の磨いたスキルが役に立っているような気がして最初は嬉しかった。
それでもぽっかり空いた心の穴はなかなか埋まらず、職員同士で子供のような喧嘩や陰湿な嫌がらせをしあっているのを見せられて次第に仕事に行くのが嫌になっていきました。
保育の仕事は大変なのにお給料が安いので職員の入れ替わりも激しく、みんなストレスが溜まっていたんだと思います。
勤務中に起こった騒動
ある日私が床の拭き掃除をしていた時、お散歩に出かける準備をしていた子どものうちの一人が先生に怒られていました。
そしてお散歩カートから出され「わがまま言う子は置いていくね!」と言われた瞬間に大きな声を出して暴れだし、本棚にガツンと頭を打って何針か縫う大怪我をしてしまいました。
その時駆けつけた園長先生に、その先生は私を指差し
「ほたるさんが見ていなかったからこんなことになった」
と報告した。
フリーランスデビュー
持ち込みを始める
その出来事がきっかけで私は保育園勤務をやめることを決意しました。
分かってはいたけど私に保育の仕事は全く向いていない。
子どもたちは可愛いけれど、ぽっかり空いた心の穴を全く別のもので埋めようとしていた私が間違っていた。
私はすぐにポートフォリオを作り企業に持ち込みを始めました。
やっぱり心から好きなことを仕事にしたい!
クリエイター求人サイトに載っていた会社や、求人に載っていなくてもデコメ絵文字のサイトを運営している会社に片っ端から連絡して持ち込みをしました。
今まで作ったデコメ絵文字、漫画、色んなテイストで描いたイラストを見てもらったら結構あっさり仕事がもらえた。
正社員を希望していなかったのも大きいと思うけれど、私がコンプレックスを感じていた学歴は特に重視していないように感じました。
持ち込みをしたほとんどの会社と契約を結ぶことができた私は、保育園勤務を辞め、フリーランスとしてデビューしました!
毎月テーマをもらって、絵文字、テンプレート、送信・受信画面、待ち受け画面などを作成し、各サイトで配信してもらっていました。
トリィとの出会い
一人暮らしを始めて1年が経っていました。
なんとかイラストの仕事だけで暮らしていけるお金を得ることができていた私は、一人暮らししたら絶対にお迎えすると決めていたセキセイインコを飼うことにしました。
インコの雛はずっと家にいて世話をしなければならないので、フリーランスになったら飼おうと決めていたのです。
名前はトリィ!
この子を幸せにするために仕事を頑張ろう!と思えました。
LUCIOLE*CAFEの立ち上げ
音楽活動で出会った人達を見ていたら、私も自分のサークルをやってみたいという衝動に駆られました。
そして立ち上げたのが
LUCIOLE*CAFE-ルシオールカフェ-
LUCIOLEはフランス語でほたるの意味。
私は自分の家をカフェのような落ち着く場所にしたいといつも考えていて、自分の家を「ほたカフェ」と呼んでいます。
サークルも同じコンセプトで、自分の作品を通して癒やしを提供したいという気持ちを込めて「ルシオール・カフェ」という名前にしました。
今はオリジナルグッズがメインですが、最初はオリジナル作品でやっていく自信がなく、二次創作で活動していました。
自分で作詞をして歌った自主制作CDやPVも作りました。
企業に声をかけていただいて、キャラクターグッズをアニメショップで販売してもらうこともありました!
二次創作を通して私がやっていきたいこと、作りたいものが明確にできたと思います!
仕事がなくなる
ガラケーからスマホへの移行で次々と仕事で携わっていた配信サイトが閉鎖していきました。
大ピンチです。
すぐに生活が困難になり、派遣アルバイトを始めました。
生きる気力も失って、眠る前はこのまま朝が来なければいいのにと毎日思っていました。
自分の中では食費が一番節約できる部分だったので、一日あまりご飯を食べずやせ細って行きました。
親不孝娘だと思っていたし、これ以上親に心配をかけたくなかったので親に助けを求めることはしませんでした。
そんな時家に大きな荷物が届きました。
恩師がご飯を食べない私に食料をこんなにたくさん送ってくれたのです。
アシスタントを辞めてからもずっと私のことを応援してくれていました。
いつでも先生が私の一番のファンでいてくれました。
DTPデザイナーデビュー
初めてのチラシ制作の依頼
どう生きたらいいか考えていた時、アシスタント時代の先輩の旦那さんからチラシ作成の依頼をもらいました。
このタイミングでなんてありがたい!!
今までPhotoshopしか使えなかった私がIllustratorを勉強するきっかけとなりました。
イラスト制作とデザイン制作は似てるようで全く違う。
PhotoshopとIllustratorの使い方も全然違います。
イラストは描けてもデザインはできない人、逆にデザインは出来るけどイラストは全く描けないという人もいる。
私は両方できる人になって、デザインも自分の武器の一つにしようと思いました。
デザインの仕事はデコメ絵文字のように流行りに左右されることはない!
ここからIllustratorを独学で学びます。
再び持ち込み!
チラシの依頼はそれを機に何度か続き、Illustratorの使い方も分かってきた頃、再び持ち込みをすることにしました。
クリエイター求人サイトでDTPデザイナーを募集していた2社に応募しました。
作ったチラシ数枚と、以前持ち込みした時と同じように、色んなテイストのイラストや漫画をファイルにまとめて持っていきました。
結果両方とも採用!
やっぱり学歴はあまり見てなくて、作業ができるかできないかで判断しているように思えました。
会社へ通う
通勤生活
2社とも在宅ワークとしての応募だったのですが、どちらの会社も家でも会社でも作業してほしいということで週5日2社を交互に出勤することになりました。
通勤時間には本を読むようになり、今まで一人で家にばかりいた私にはかなりの気分転換になりました。
会社ではフリーランス組の机エリアと各部署の社員の机エリアが分かれていて、制作の社員と営業と組んで仕事をします。
いい人達ばかりでとても楽しく、社員さんから直々に指導してもらえたり他の人の作業データを触れるので、知らなかったIllustratorの機能もどんどん覚えていきました!
こんな見せ方もあるんだ!と勉強になるので、自分の引き出しも増やすことができました。
年齢も若い方だったので特別に可愛がってもらえた気がします。
採用の裏話
面接の日に財布を忘れているのに気がつかず、Suicaで電車に乗ってしまったんです。
会社の最寄り駅に着いた時、Suicaの残金がなくてチャージしようと思ったら
財布がない・・・。
今家に引き返したら面接の時間に間に合わない・・・。
終わった。完全に終わった。こんなやつ採用されるわけがない。
と思ったら、面接担当の社員さんが改札まで1,000円を持って迎えに来てくれたんです!!!!!!
社員さん「はい、あとで返してね。」
入社数ヶ月後の懇親会で、面接担当だった社員さんに
「会議で、大事な日に財布を忘れるような人どうなの?って話になったんだけど、イラストも描けるし、技術はありそうだって推したんだよね〜!本当に採用して良かった!」
と言われました。
普段この社員さんと組んで仕事することが多いのですが、いつも感謝の念を送っています。
デザインの構成図と漫画のコマ割り
デザインのレイアウトを考える時、私はまずコマを割ることから始めます。
コマを割ってそのコマに沿って配置するととても綺麗に並ぶのです。
漫画のように変形ゴマはあまり使わないけど、この作業が漫画作成みたいで好きです。
会社で私は、
他の人が1時間かけてやることを10分でやる
なんて大げさに褒められることがあったのですが、もしかしたらこのコマ割り作業が他の人より早いのかもしれないです。
ようやく安定した日々
会社ではチラシやカタログなどの紙媒体の広告以外にも様々なデザインを任せてもらっています。
会社に来てだいぶ経ってから動画やウェブ、声の仕事もできるとポロッと話したら、なんで面接の時に言わなかったの!?と言われて、頼まれるようにもなりました。
趣味で始めたものが全て仕事になっていることに驚いています。
私は器用貧乏で、全て中途半端の落ちこぼれだと思っていたし、実際私の周りにいた天才クリエイター達にはそう思われることも多かった。
でも会社に通うようになってから、周りの人には何でもマルチにこなす凄い人と思ってもらえているようです。
こんなこと誰だって出来るでしょと思っていたことでめちゃくちゃ褒めてもらえることになかなか慣れませんでした。
会社でも家でもたくさん仕事がもらえるようになり、暮らしも安定してきました。
今では片方の会社は辞めて一つの会社に絞りました。
週3日だけ出勤して、その他の日は家で作業しています。
デザイナーを本格的にやるきっかけになったアシスタント時代の先輩の旦那さんからいただいている仕事も続いています。
辞めた方の会社に確定申告の書類の件で久しぶりに連絡を取った時
“バイトや外注をお願いしていますが、ほたるさんの有能さを思い知らされています(笑)”
という内容のメールをもらいました。
締切までのスケジュールがタイトだと大変ですが、この仕事が楽しくて楽しくて仕方がありません!
ただ自分の武器の一つにしようと思っていたデザインの仕事が天職だったとは思いませんでした。
アシスタント時代に思った
漫画を描くことより、小物をデザインする方が楽しい!
はここに繋がっていたんだと思います。
オリジナル雑貨制作
仕事量が安定してからは二次創作をやめて、本格的にオリジナル作品でLUCIOLE*CAFEの活動を始めました。
大好きなトリィをモデルにしたインコのグッズをたくさん作って、毎年様々なイベントに出展しています。
オリジナルCDも出しました。
歌の活動は私にはあまり結果が出せなかったので、今後はまったりと歌いたい時に歌っていきたいです。
グッズ制作でも台紙や備品、商品説明や注意書きの文言まで全て仕事で学んだことを存分に活かしています。
さいごに
色々と省略している部分もありますが、これが私がデザイナーになれた流れです。
専門学校にも通っていない落ちこぼれの私でもデザイナーとして生きて行けています!
毎年少しずつ収入も上がっています。(コロナの影響でこの先どうなるか分かりませんが…)
私は正社員として働く選択肢は全くありませんが会社で何人かに「うちの社員になる?」とか「うちで社員になっちゃえば〜?」なんて軽く言われたので、技術があれば社員として働かせてもらえることもあるのかも?
もしデザイナーをやってみたいと思っている人は今はネット上にソフトの使い方を説明している人が溢れているので、まずは一歩踏み出してみてください!
今からじゃ遅いなんてことはないと思います。
- 今の自分に出来ること、可能性のあることを片っ端からやってみる。
- 自分の目の前にあるボールを軽く投げるように行動してみる。
消えてなくなりたくなっても光の指す方向に進み続けたこと、ほんの少しの可能性を信じて学んだこと。
振り返ると全ての出来事が今に繋がっていて、どんなことも無駄ではなかったと思えます。
小学生の頃に漫画家を目指すきっかけとなった
自分も何か大切なメッセージを作品に込めて届けたい!
という思いは作詞をしてCDを出したり、動画やグッズを作ることで叶えられたと思っています。
私の夢は漫画家になることではなくて
“大切なメッセージを込めた作品を届けること”だったのだと思います。
これからも作品を通して色んなことを伝えていけたらいいな。
もし私のようにずっと夢見ていた事を諦めてどん底にいる方がいたら、その夢を通して何をしたかったのかを考えてみてほしいです。
別の形で叶えられることもあります!
例え今までいた場所でどれだけ落ちこぼれだったとしても、自分が輝ける環境は必ずある。
私は今新しい夢に向かって進んでいます!
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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